船越義珍の空手二十ケ条とその解説
仲宗根源和編「空手道大観」の松濤二十箇條(PDF形式) 第4条 先ず自己を知れ、而（しか）して他を知れ
この言葉は、「孫子の兵法」第三篇「謀攻」からヒントを得ている。
この世から戦争がなくなり、人々は永遠に平和な大地に生き続けたい。これは古代の
中国でも人々が抱き続けた夢であり、理想だったに相違ない。だが、現実には平和の願
いは武力抗争の中に無力で、平和は強大な武力を背景によってのみ達成され維持される
という現実は、争闘は止まらず戦乱の足跡ばかりを残す。しかも勝敗の帰趨は国家や民
族の興亡に直結する重大事となる。こんな時代背景の下に「孫子の兵法」は書かれた。
この兵法書は、中国春秋時代（前770～440頃）末期、呉王の闔廬（こうろ、在位前514
～ 前496）に仕えた軍師・孫武が著したと伝えられ、中国が誇る兵法書の古典で、簡潔
な文章で13篇から構成されている。古来、中国はもとより、わが国など東洋の他にも西
欧にまで読者は広がった。
徳川時代には、幕府が「武経七書」の一つとして「孫子の兵法」も刊行して諸大名に
配布したから一層流布した。ただし、中国とわが国の国土広さ、戦いの規模、動員兵馬
の数など比較にならない違いがある。そのままわが国で軍事に当てはめたとは考え難い
が、武家社会の素養の一つとして学ばれたようだ。余談だが、1972年に山東省臨沂（り
んぎ）県銀雀山の前漢時代（前206 ～後９）の墳墓遺跡から、竹簡に書かれた「孫子」
が出土し、後の研究に資したこと多大である。
出典の「謀攻」とは、実際の戦闘によらないで、計謀（はかりごと）によって敵を攻
略することを指す。船越が参考にした原文は、
『故に兵は、彼れを知り己を知らば、百戦して殆（あや）うからず。彼れを知らずして
己を知らば、一勝一敗す。 彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし』
である。
ここの「殆」について、現代では「ほとんど」の意味で使うが、古くは「あやうい」
とか「もう少しでよくないことがおこりそうで不安だ」の意味に用いた。「危」の「安
定せずくずれそうなさま」、「あやうくする」や「あぶないと感じる」とは意味が異な
る。
引用事項は、集団の場における軍事の原則的な事柄であり、「謀攻」そのものは空手
のように個人的要素が濃厚なケースを対象に成文されたものでない。しかし、個人対個
人の場合でも、この心構えは活用できる。
まず、自分自身の能力や力量など全般的な状況を知り、目標に取り組む行為行動と心
理的情況を把握し、その傾向を総合的に分析しなければならない。そして、能力アップ
を図るには努力も大切だが、自分だけで工夫しても思いのほか進捗は期待できない。良
き指導者からアドバイスを貰い、仲間やライバル達の力を借りて歩むもので、相対関係
や集団的活動を無視できないから、自分一人の世界には限りあると了知すれば、自己が
あり他者もいる意識を失ってならない。
この「空手二十ケ条」が書かれた70余年前の空手界は、稽古（練習）や試合など現代
と大きく相違していた。この条文は、現在の練習や試合（競技）でも十分効果を挙げる
と思うので、その観点から述べてみたい。
練習の場では、最初に指導者（又はリーダー）が言わんとする主眼は何かに、鋭敏な
アンテナを張り巡らし、次いで練習相手の特徴や技量を推し量り、その情報を沢山持つ
に越したことはない。指導者から得られる情報を適切に捉え、練習相手との良好な関係
を保てるなら効果は期待できる。実力上位者を観察すれば、決まって下位者の情報を素
早く察知し、戦法に置き換え、最小の力（省エネ）で最大の結果を発揮するなど、理想
的な取り運びを見て取れる。
試合では、何の情報も予備知識もないまま臨めば、戦術の行使も戦略の構成も不可能
となり、エネルギーを沢山使う割に効果は薄い。相手の情報を適切に活用できれば、そ
こには攻防一体の展開を可能になる。
武道の世界には「見取り稽古」という言葉があって、他の人の練習や試合を見て学ぶ
ことを意味し、これを上達に繋いだという。その意味するところ次のとおり。一つには、
自分より優れた技や理想とする技の使い方など、目ばかりでなく五感の全てを動員して
感得し、俗に言う「技を盗む」ということ。二つには、いずれかの機会に活用するため、
先輩後輩から多くの情報を得て沢山集積するである。どんな些細な機会も逃さず、学び
に精出す習慣を身に付けるなら「一を聴いて十を知る」効果が生まれるはずである。
孫子は、自分の力をまず認識し、更に相手の力量や特徴を熟知したとしても、「百戦
百勝」でなく「殆（あや）うからず」としたのは意味がある。それは、いくら自分と他
者の実勢を知り尽くしたとしても、相手がいる相対関係において、相手の方が更にその
上を歩んでくる場面だってあるし、力量の差異を埋められない場合もあるから、絶対は
ないと定義し警告していると思う。
場当たり主義でなく、自己の長所短所をよく自覚し、日々向上心をもって努めること
肝要で、前向きの姿勢があれば情報量も増える。傲慢を排除し自惚れの気を鎮め、清明
な心の養成を怠らなければ、この言葉の真意を実践できよう。
戦国時代、甲斐国の猛将武田信玄が掲げた旗指物には、『疾如風 徐如林 侵略如火 不
動如山』と書かれていた。これは「孫子の兵法」軍争篇からで、基になる言葉は『其疾
如風 其徐如林 侵略如火 不動如山』で、更に『難知如陰 動如雷震』と続く。『其（そ）
の疾（はや）きこと風の如く、其の徐（しずか）なること林の如く、侵略すること火の
如く、動かざること山の如し、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆（らいてい、激し
い雷のこと）の如し』である。略して「風林火山」といった。
第5条 技術より心術
鍛錬もしないで技術も伴はないで、武道・武術は心術だけで成り立たないのは明白で、
朝鍛夕錬して励む辛苦の中から心術は生まれ、時間を掛けて心の成長も附随してくる。
また、技能の高低によって心も持ちようは変わる。
『技術より心術』だから、技が下位で心の方が上位の意味にとれる。うがった読み方をす
れば、心術は駆け引きの道具のように、戦術行使手段かと勘違いしたくなる。空手修行
人に与える指針とすれば、適切な言語選択とは思えない節がある。しかし、技術の上達
も大切だが、その技術を土台として心構えの方をいかに構築するか、ただ単に強いばか
りが能ではなく、強さに伴う所作や思想が完全であること。一日一日を求道精神の実践
に費やしながら、争いを求めることなく、人類の平和を希求する生き方を尊ぶ。こんな
心構えこそが、技術以上の存在であると解釈しなければならない。
だが、現実には技術の修行も思うように任せず、精神修養も迷いと悩みばかり多いの
が武道人の事態だと思う。心技並行修行の難しさは、武道家の生涯にわたる大事である。
武道・スポーツ関係者で尊敬する人はと問われれば、躊躇することなく大相撲の横綱
双葉山と、同じく横綱大鵬。プロ野球ならホームラン世界記録保持者の王貞治の三氏を
挙げる。ここでは、名横綱双葉山を例に心術を話したい。
双葉山定次こと穐山定次（あきやま・さだじ、1912～68）は、大分県宇佐市に生まれ、
最盛期でさえ身長177ｃｍ、体重130ｋｇの体型は、大男ぞろいの大相撲界では平均を大
きく下回るものだが、後々まで『双葉の前に双葉なし、双葉の後に双葉なし』と謳われ、
『相撲の神様』とか『史上最強の横綱』と喧伝された。若いころ私の身長は 174ｃｍあ
ったから、双葉山は私よりわずかに高いだけである。後に述べるが、私が真近く目にし
た数少ない著名人の一人であった。
昭和2年（1927年）3月に初土俵を踏み、同20年11月引退表明するまで18年余の力士人
生だった。引退後は親方・時津風を襲名して同部屋を起こし、第45代横綱鏡里をはじめ
多くの名力士を育成した。彼は、年間 2場所11日制（途中から双葉山人気で13日制とな
る）だった昭和11年（1936年）1月場所、前頭3枚目の7日目から勝ち続け、同14年1月場
所4日目に安芸ノ海（後に第37代横綱となる）に敗れるまで、3年間負けることなく69連
勝という不滅の大記録を打ち立てた。連勝が始まり2場所経って大関に、大関2場所から
第35代横綱に推挙された。江戸大相撲の記録では谷風梶之助( 第4代横綱、1750～95)の
63連勝が最高で、近代になってからは千代の富士(第58代横綱、1955～)の53連勝、次い
で大鵬（第48代横綱、1940～）の45連勝である。谷風の場合は時代条件が違うし、双葉
山の69連勝はいかに凄い記録か理解できる。また、大鵬の場合は46連勝目をかけた一番
で後に「世紀の誤審」といわれた場面があり、その翌場所から本場所にビデオ判定を導
入した経緯があった。
双葉山は、大相撲史上不滅の69連勝の記録の他に、優勝12回（年間２場所、今は年間
６場所）、全勝優勝８回を成した。大相撲の幕内優勝記録は、年６場所制になり大鵬の
32 回だが、大鵬の全勝優勝は双葉山と同じ８回である。横綱在位中の成績は、大鵬が
622勝13敗136休で勝率97.95％に対し、双葉山は180勝24敗22休で勝率88.24 ％となって
いる。
年間２場所制とか、双葉山の場合は第二次世界大戦中という時世の違いもあるから一
様に比較はできない。この二横綱のかかえた共通の悩みは、度重なる病との闘いであり、
いかに完璧な心の状態を保つかであった。いづれにしても心技相伴った大横綱の二人だ
ったこと異論はあるまい。横綱大鵬については別の機会に触れたいと思う。
さて、人並み優れた相撲道を歩んだ双葉山も、日夜心の置き所に悩んだ一人であった。
彼の著書「相撲求道録」（1979年、ベースボールマガジン社発刊）を参考にしながら次
に述べてみたい。
はじめに、宗教と双葉山である。彼は十分に稽古を重ねても、いざという時に精神の
動揺があったり、気分が硬くなったりすると平素の実力が発揮できない。勝負の世界に
生きる者として「精神の統一」とか「気分の整理」を考えるようになり、拠り所とした
信仰は日蓮宗で、18歳の時だった。後に横綱になって 6場所目のこと、『信念の歯車が
狂った』として突如山篭りし、30日間瀧に打たれる荒行をしたのも日蓮宗の寺であった。
引退後、新宗教の璽宇教の教祖・璽光尊とともに警察に逮捕されるという事件があった。
本稿と関連が薄いので割愛する。
かつて大相撲界では、横綱を目指す有望力士には親方は各界の著名人と交わりを持た
せたという。双葉山の場合も、本県出身の歌人で精神科医の斎藤茂吉を始め、貴族院副
議長・初代横綱審査会長の酒井忠正、歌舞伎俳優の六代目尾上菊五郎、彫刻家・朝倉文
夫などと親交あったが、その中の一人に東洋思想家で陽明学者の安岡正篤（1898～1983）
がいた。
双葉山大関時代のこと、安岡は次の「木鶏」の話しをした。この「木鶏」の話は、姓
を荘、名を周と呼んだ中国・戦国時代の思想家で荘子（前369～前286）が著した「荘子」
（そうじ）の中の「達生篇」が出典てある。わが国にすれば、弥生時代早期末ころであ
る。
これは武道熟達に至る段階的な過程を寓話にしたもので、双葉山と「木鶏」の話は、
平成19年 4月のワンポイントレッスンでも述べているので、ここでは簡潔に記すに止め
る。
「昔、周の宣王のために闘鶏（鶏を戦わせる遊戯。これに用いる鶏を軍鶏・シャモと言
う）を飼育する紀省子（きしょうじ）という名人がいた。王は、彼に一羽の優れた軍鶏
を与えて、一番の闘鶏に仕上げるよう命じた。
十日ばかり過ぎて『もうそろそろ仕上がったか』と王が問うたところ、彼は『まだい
けません。ちょうど空威張りの最中で、気持ちばかり先走り、いきり立っているから駄
目です』と断った。
それから十日ほど過ぎて『もういいかね』とたずねた。『未だよその鶏の声や姿を見
ると、興奮するから駄目です』と。
また十日ばかり過ぎ、待ちあぐねた王は『もういいではないか』と問うと。『未だ駄
目です。相手が現れると眼を吊り上げ憎憎しげに睨み付け、闘争心むき出しです。まだ
いけません』と。
更に十日、すっかり痺れを切らした王は『もういいか』と問うた。紀省子は言いきっ
た。『もう大丈夫です。よその鶏が鳴いても顔色一つ変えません。まるで木で作った鶏
のようですが、動ずる様子もなく全徳が備わっているかに見えます。挑戦させようと他
の軍鶏を差し向けても、戦う前から逃げ帰ってしまいます』と。宣王も未だかつて出会
ったことのないこの軍鶏の姿を見て、紀省子の希代な育鶏の手腕を賞賛した」と。
このような話です。
まず、一人の優れた闘鶏の育養者（武道なら指導者）がいたこと。訓練を依頼した周
王は、育成段階で十日の間隔をおいて三回出来具合を尋ねるが、紀省子は王に理由を述
べ、完成していないと断る。四回目にして、完全に出来上がったと告げた。完成した軍
鶏は、勝敗とか闘うとかの心意を超越し、大悟徹底の境地に至っていた。はたして40日
間で完成にするかこの場合は問題外として、この鶏の素質もさることながら、育養者と
ともに刻苦精励し完璧な状態に到達した結果を物語っている。
双葉山は連戦連勝をもって全勝優勝を重ね、破竹の勢いの最中にこの話を聞き、自分
もこの「木鶏」の如くありたいと願望し、自分と「木鶏」像を重ね合わせて励んだ。そ
して、昭和14年 1月15日ついに安芸ノ海に破れ、連勝は69で途絶える。私は、この場面
を戦死した叔父とラジオ放送で聴き、アナウンサーが『双葉敗れた。双葉敗れた』と絶
叫したのを記憶している。双葉山は、この場所の２か月前に中国巡業でアメーバ赤痢に
罹り15ｋｇの体重減少にも拘らず、横綱の責任感と面目から敢えて出場した。負けて言
い訳一つ言わないで、インド洋航海中の師・安岡に打電したのが『ワレイマダモッケイ
タリエズ、フタバ』（われ未だ木鶏たり得ず、双葉）であった。負けたのは体調のせい
でも、安芸ノ海の技のせいでもない。ただ自分自身の心の持ちように原因したと、心か
ら反省の意を表したものであろう。
双葉山は、強い力士というよりも完全な力士、そして相撲道を人間完成の手段と考え、
名利を追わず清廉を旨とし、日々実践した類稀なる求道者であった。誰もが彼の行動に
感嘆し、感銘を受けたのである。双葉山の四股の踏み方は、映像記録で見る限り高く上
げた足が下される時、土俵に杭が打ち込まれるような踏み方だった。いかなる力士も真
似のできない、独特な四股はいかなる場面においても変わることなかった。
私は、昭和30年（1955年）７月、大学２年生の時だった。最上町の実家に夏休み帰省
中に大相撲地方巡業があって、出身中学校グランドでの一日興行を見物に行った。そこ
で、巡業責任者として紋服で挨拶する土俵上の時津風親方（双葉山）を遠目に見た。終
わって午後４時過ぎ、私は新庄市に用事ができて列車を待つホーム上で、同じく次の巡
業地に向かう一行と出会い、ホーム真ん中辺に独り黙然と佇む時津風親方がいた。どの
力士も近寄り難い風情で、オーラが全身を覆っていた。私は、そっと２間（ 360ｃｍ）
ばかり側に近付いくのが精一杯。白Ｙシャツにズボン吊、上衣を小脇に抱えた親方は、
現役時代と全く変らない便便たる太鼓腹と、眉は薄いが観音菩薩のような切れ長の眼差
し、微動だにしない姿は今も瞼に焼き付いて離れない。握手をお願いしたり、一枚の写
真でもあったら最高の宝物だったろうが、畏れ多くてただ呆然と見とれるばかりだった。
こんな双葉山だったが、日本相撲協会理事長現職の昭和43年（1968年）12月、劇症肝
炎のため惜しまれながら逝去した。享年56歳だった。
双葉山の残した言葉には、次のものがある。日本人の強さと品格の象徴とも言うべき
偉人を偲び、皆さん「座右の銘」の一つに加えていただきたい。
『稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく』
『相撲は体で覚え心で悟れ』
『勝負師は寡黙であれ』
『一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ』
最後に、双葉山の70連勝を阻んだ安芸ノ海が、その晩、師匠の出羽の海親方に結果を
報告した。親方は『勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ』と
諭したそうです。当時は、双葉山に限らず立派な人が大勢いたのです。
次号につづく
