１月のある日、道場の催事などで懇意している業者の一人から講演の依頼があって、
その会の名を「モッケイ・クラブ」と言いました。私は、会の名を聞いて『あの名横綱
双葉山の電文にあった、木の鶏と書いたモッケイか』と聞き返すと、依頼人は『そのと
おり』だとおっしゃった。どうも大変なクラブのように思い『恐れ多いような気がする
から、私では無理です』と辞意を述べましたが、名前ほど大げさな会ではないからと謙
遜の意を表され、つい引き受けてしまいました。私の語った講演内容の善し悪しは別と
して、３月２２日どうにか役目を果たしました。
さて、この「木鶏」ですが、出典は姓を荘、名を周と呼んだ中国・戦国時代の思想家
荘子（前369～前286）が著した「荘子」（そうじ）の「達生篇」に出てくる物語です。
中国において、武道熟達に至る段階的な過程を例え話で述べており、言い得て妙なこと
ころは真実感嘆させられます。「荘子」が著されたのは我が国では「弥生時代」早期末
頃のこと、それが少なくとも1500年以上後になって、武士の発生と武士道精神、武道習
練を通じて人間の道を学びとらせるのに反映され、しかも決して古びた感じがしないと
ころが、中国という国の奥深さを思うのです。
訳文説明だけでなく、原典の訓読文を知っておくのも有意かと思い、はじめに記載し
ます。
紀省子、王のために闘鶏を養う。十日にして而（しか）して問う。『鶏、巳（よ）
きか』と。曰（いわ）く『未だし、まさに虚憍（きょきょう）にして気を恃（たの）
む』と。十日にして又問う。『未だし、猶を響景に応ず』。十日にして又問う。曰
く『未だし、猶（なお）疾視（しっし）して而して気を盛んにす』と。十日にして
又問う。曰く『幾（ちか）し。鳴くものありいえども、己（すで）に変ずるなし。
之（これ）を望むに木鶏に似たり。その徳全（まった）し。異鶏、敢（あえ）て応
ずるものなく、反（かえ）って去らむ』
であります。
これを現代文に訳し、若干の補足を加えます。
昔、周の宣王のために闘鶏（鶏を戦わせる遊戯。これに用いる鶏を「軍鶏」シャモと
言う）を飼育する紀省子（きしょうじ）という名人がいた。王は、彼に一羽のすぐれた
軍鶏を与えて、一番の闘鶏に仕上げるよう命じた。
☆十日ばかり過ぎて『もうそろそろ仕上がったか』と王が問うたところ、彼は『まだ、
いけません。ちょうど空威張りの最中で、気持ちばかり先走り、いきり立っているか
ら駄目です』と断った。
☆それから十日ほど過ぎて『もういいかね』とたずねた。『未だよその鶏の声や姿を見
ると、興奮するから駄目です』と。
☆また十日ばかり過ぎ、待ちあぐねた王は『もういいではないか』と問うと。『未だ駄
目です。相手が現れると眼を吊り上げ憎憎しげに睨み付け、闘争心むき出しです。ま
だいけません』と。
☆更に十日、すっかり痺れを切らした王は『もういいか』と問うた。紀省子は言いきっ
た。『もう大丈夫です。よその鶏が鳴いても顔色一つ変えません。まるで木で作った
鶏のようですが、動ずる様子もなく全徳が備わっているかに見えます。挑戦させよう
と他の軍鶏を差し向けても、戦う前から逃げ帰ってしまいます』と。宣王も未だかつ
て出会ったことのないこの軍鶏の姿を見て、紀省子の希代な育鶏の手腕を賞賛した。
と、こんな話です。
まず、一人の優れた闘鶏の育養者（武道なら指導者）がいたということ。訓練を依頼
した周王は、育成段階で十日の間隔をおいて三回出来具合をたずねます。紀省子は王に
理由を明確に述べ、完成していないと断っています。四回目にして、完全に出来上がっ
たと告げるのです。この鶏は、勝敗とか闘うとかの心境を超越し、大悟徹底の境地に至
った訳であります。この場合、40日間で完成させられるどうかなどは問わないことにし
て、この軍鶏の素養もさることながら、四段階習練の中で導かれ、刻苦精励しついには
心身ともに完璧な状態に至るまでの様を物語っております。読者皆様には、今までの経
験や体験を思い浮かべ、我が身に置き替え「木鶏」の物語を考察し、修道のため邁進し
てくだされば幸いです。
木鶏の訓練始めの三段階は、少々強くなったからとの思い込みや、居丈高やあらぬ恫
喝など、往々にして陥りやすい愚行を表現しております。『そんなことはない』と自己
診断できる人は稀だと思うし、大所高所から見つめ直す機会と心得て、生涯揺るぎない
「木鶏」を目指そうではありませんか。ただし、最初から「木鶏」を標榜しては大成で
きません。修行段階では、何かと紆余曲折や試行錯誤ばかり、壁にも始終突き当たり、
悩みばかりの連続でしょうが、ひたすら倦まず弛まず歩むほかありません。また、誰し
もが「木鶏」を目指せるものものではないこと自明のこと、段階的な過ちを経過し初め
て次の過程が開けてくるのです。
参考までですが我が師・大塚博紀先生は、著書の中で武道に「十悪」があって、修行
過程で妨げや弱点になるからと述べております。我慢、過信、貪欲、怒り、恐れ、危み、
疑い、迷い、侮り、慢心がそれであります。
武道「十悪」も「木鶏」と併せ、よくよく省る材料とされて、練習や試合でも「準備」
→「実践」→「反省」が必ずある訳ですから、活用されるよう期待いたしております。
第35代横綱 双葉山定次（ふたばやま・さだじ）ここで、冒頭で触れた大相撲不世出の大横綱・双葉山について語ります。
双葉山は、1912年（明治45年。以下、西暦で記します。）２月に、大分県宇佐市に誕
生しました。1927年15歳で初土俵を踏み、右目が半失明、力士の力の源ともいえる右手
小指（突き、はず押し、まわしを取るときの要です）が力士になる前の事故で潰したと
いうハンデキャップを負いながら、その当時は年間２場所制ながら、前頭３枚目の1936
年１月場所から連勝をスタートさせ２年後横綱に昇進し、1939年１月場所４日目に安芸
ノ海（あきのうみ）に敗れるまで３年間負けなし69連勝の大記録を達成しました。この
69連勝をはじめ、関脇から横綱まで負けなしの昇進、横綱昇進後の勝率 88.2%、５場所
連続全勝優勝の他、今も破られない数々の記録を残しております。179ｃｍで130ｋｇと
いう当時にしても決して大柄力士でないが、現役時代の戦績は、優勝12回、うち全勝優
勝が８回、今は年間６場所ですからこの記録の３倍と考えればいいかも知れません。史
上最強の横綱とか、相撲の神様・天才とか呼ばれました。
双葉山は連勝がストップしたその夜、師と仰いでいた安岡正篤（やすおか・まさひろ
1898～1983年。東洋思想家・陽明学者で、第二次世界大戦終結時における「終戦詔勅」
玉音放送の加筆者）にあて、安岡がインド洋航海中の船舶に打電したのが『ワレイマダ
モッケイタリエズ、フタバ』（我未だ木鶏たり得ず、双葉）でありました。双葉山は、
強い力士というよりも完全な力士、そして相撲道を通じて人格完成を目指し、名利を追
わず清廉を旨とし、日々実践した類稀なる求道者として、人々の感嘆と感銘を呼んだの
です。連勝ストップの場所も、前年の中華民国（今の中国のこと）巡業で罹病したアメ
ーバ赤痢が癒えない15ｋｇも体重減少に拘らず、横綱で力士会長だった玉錦の急逝とい
うアクシデントがあったため、その責任感から敢えて出場した場所だったのです。なお、
その後双葉山が二代目会長となり、引退後は日本相撲協会理事長を務め、協会の近代化
に奔走し尽力した功績も多大でありました。
生涯求道の人生を歩み、終生「木鶏」を希求し続けた双葉山でしたが、1968年（昭和
43年）12月、劇症肝炎のため惜しまれながら亡くなります。享年56歳でした。
映像記録で見る限り、土俵に突き刺ささるような四股の踏み方など、どの力士にも類
似形はありません。双葉山の残した言葉に、『我未だ木鶏たり得ず』の他に次のものが
あります。日本人の強さと品格の象徴とも言うべき偉人を偲び、皆さんの「座右の銘」
の一つに加えてください。
『稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく』
『相撲は体で覚え心で悟れ』
『勝負師は寡黙であれ』
『一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ』
なお、双葉山の70連勝を阻んだ安芸ノ海が、師匠の出羽の海親方（元小結両国）に報
告した際、親方は『勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ』と
諭したそうです。当時は、双葉山に限らず立派な人が大勢いたのですね。親方の言葉を
ひたすら守り、後には安芸ノ海も横綱に昇進するのです。
かつて、大相撲の世界では有望力士には、親方は必要な素養を学ばせるため碩学の師
を付ける投資をしたといいます。安岡正篤もその一人だったと思うし、武道や茶道、華
道のみならず伝統芸能に至るまで同様だったと聞いた。このことは、別の機会に詳しく
述べたいと思います。
以上が双葉山についてですが、関連して二つエピソードをお話します。
一つには、私が３歳数ヶ月だった時、69で連勝がストップしたその夜です。『フタバ
敗れた。フタバ敗れた』と興奮したアナウンサーが熱叫するラジオ放送を、戦死した叔
父と聴いた記憶が微かにあるのです。衝撃的な出来事は例え幼少であっても、忘れ得な
い記憶として残るものだと今にして思います。
二つには、私は日本相撲協会副理事長時代の双葉山（時津風親方）と見（まみ）えま
した。1955年の夏、大学２年生の時で、最上町の実家に夏休み帰省中に夏の地方巡業の
責任者として訪れたのです。前日から泊って、出身中学校グランドでの一日興行でした
が、我が家にも前頭筆頭の関取とその付人が民泊し、時津風親方は赤倉温泉泊りでした。
終わって午後４時頃の列車で一行は次の巡業地に向かうのでしたが、我が家に泊まった
力士を見送りに駅に行くと、ホーム中央に独り黙然と佇む時津風親方が居られました。
どの力士も近寄り難い風情で、今にして思えばオーラが立っていたときり表現法があり
ません。私は、そっと２間（ 360ｃｍ）ばかり側に近寄るのが精一杯。白Ｙシャツ姿に
ズボン吊、上衣を小脇に抱えた親方は、現役時代と全く変らない便便たる太鼓腹、切れ
長の清明な眼差しと微動だにしないお姿は今も瞼に焼き付いて離れません。握手をお願
いしたり、一緒の写真でもあったら一生の宝物だったのですが、残念ながらただ呆然と
見とれるばかり、それに写真機も持ち合わせませんでした。
おわり
