船越義珍の空手二十ケ条とその解説
仲宗根源和編「空手道大観」の松濤二十箇條(PDF形式) 第7条 禍（わざわい）は懈怠（けたい）に生ず
まず禍について、これは「わざ」と「わい」二つの言葉からなる。「わざ」は神為（神
の行為）、又は神鬼（神と鬼と）や精霊などが行なう業（わざ）の意で、「わい」はその
様子や状態をあらわす。「わざ」と「わい」が一つになり、「悪い結果をもたらす神の仕
業」から、さまざまな悪い事柄、災難、疾病、天変地異、旱魃、凶事や不幸などの他、悪
い気配や兆しも含めて称した。
古の人たちは、人間の力や行動で操作や解決できない事象を、人智・人力の及ばない領
域の存在がなせる仕業と解釈し、難儀をこうむることの総称とした。古語では禍事（まが
ごと）という。災難の災（さい）や、殃禍の殃（おう）も、禍（か）と同じく「わざわい」
と読む。
子供のころ、怖いものの譬えは「地震・雷・火事・親父」の順とした。最近は、親父の
権威が低落し、怖いものから外されても仕方ない存在になった。地震と雷は、いかに努力
しても防ぎようがない。火事は、失火なら完璧を期していれば遭うこともなかろうが、貰
い火の他にもいかんともしがたい事態発生があるから、天災の場合があるだろう。
禍は「落とし穴に落ちるような悪い出来事」、同じ「わざわい」でも災は「順調な進行
を切り止める災害」、殃は「順調な進行をおさえて止める邪魔者」のことである。因みに、
殃の偏は「死」を意味する。この条文では、天災的なこと主としていないのは当然である。
禍の反対語は「福」である。福が禍となり、禍が福のもとになったりするから、この世の
幸不幸は縄をより合わせたかのように表裏をなしている譬えに、「禍福は糾（あざな）え
る縄の如し」という言葉がある。
次いで懈怠は，懈の字は「ばらばらに解き放す」で、「怠る」「だらける」「気を緩め
て怠ける」などである。怠の字は、懈と同じく「怠る」の他に「心を弛ませる」「弛んで
仕事をしない」で、二つの字が一緒になって「心が緩んで物事を疎かにする」「なまけ怠
る」「いいかげんに扱う」となり、同意の言葉に懈惰（かいだ）や怠惰、怠慢といった言
葉がある。
スリランカ上座部仏教（小乗仏教の一派）の僧侶で、たびたび来日し活動しているアル
ボムッレ・スマナサーラ（1945～）は、『人間が好きなものは、快楽と競争と、ぼーと寝
転がったり、怠けたりすることです。これは貪（むさぼ）り、瞋（いか）り、痴（おろか）
さが、狡賢（ずるがしこ）く人を誘うからです。悪いことをするのは簡単で楽しく、やり
たくてたまらないものです。それが自己破壊へと導く原因となります。心が嫌がることを
承知のうえで、貪・瞋・痴（トン・ジン・チ）を戒めて、乗り越えるように励むべきです』
と説いている。
『人間が好きなものに…』で分かるように、人間万事、楽な方へと身を任せたがる傾向
を持つ。なぜか「心が緩んで物事をおろそかにする」方に傾斜しやすく、享楽や単なる競
争だけでなく、「博打」（ばくち）も大好きのようだ。こんな悪弊が付いて回るから、崇
高なはずのホモサピエンスなのに、「心の緩み」も本能の一つかと疑いたくなる。同じ楽
といっても、これに欲が絡めば大変なことになる。飽くなき欲望の追求を最優先として、
欲求はとめどなく拡大し一人歩きしてしまうからだ。
私たちの日常も同様である。一日が終わって省み、明日はと大仰な目標を立てるが、次
の日になると、限界まで取り組もうとしたはずが中途で挫折し妥協してしまう。なかなか
前日思った目標達成に至らないこと、誰しも思い当たるはずだ。大きく怠っている意識は
ないけれど、実際は思うに任せない結果に終わってしまう。
今日はこんな仕事をして、これくらい練習をしようと朝起きて思いながら、予期しない
用事が入ったり来客があったりすると、これ幸いと「ずるけて」しまう。これは筆者の偽
らざる告白である。それでも自省心はあるつもりだから、自省すればするほど、今度は自
省がストレスに変わり意地悪く蓄積されていく。続いて、ストレスは煩悶を繰り返し、時
によって疾病や傷害につながることさえある。
もし、空手修行の妨げになる病気や怪我とか、生活や仕事上免れない拘束など、致し方
ない事情があれば許されようが、何故かスマナサーラの指摘のように、人間は生まれなが
ら「貪瞋痴」に振り回され易く、残念ながらこの指摘を容認せざるを得ない。ある日は心
の底から『今日はやるぞ』と燃え上がり、次ぎの日は『今日サボっても、明日があるから
いいさ』と怠惰を決め込む。年中を通して一様に取り組めないのが、私たち真の姿かもし
れない。
『あの頃もっと頑張っていれば、自分の空手は違っていたはずなのに』とは、空手人の
99.9％が思うところだろうか。しかし、過ぎ去った歳月は取り戻せない。
どうせ懈怠から離れられないとすれば、いっその事この現実を受け入れようではないか。
仏教で言うところの、心身を悩乱し修行の妨げとなる一切の妄執、貪・瞋・痴をはじめ慢・
疑・見を根本とする限りない煩悩（百八煩悩とか、八万四千の煩悩という）から逃れられ
ないのが宿命なら、あえて懈怠とたたかいもがくのでなく、懈怠と同居しながらでも、大
好きな空手があれば人生甲斐があると思う。ただし、誰もが空手大好きになれるわけでは
ない。ある程度の苦悩とともに幾ばくかの歳月を歩み、『空手さん。懈怠な俺（私）だけ
ど、ずっと付き合ってくれよな』と懇ろな関係になったとき、やっと「空手馬鹿」の仲間
入りができる。
学術・教育の場に、「知識の切り売り」という悪い意味の表現がある。空手技の「切り
売り」なんて言われたら不幸この上ないことで、さすれば本物の懈怠者になってしまう。
付言するなら、「空手馬鹿」が心底から慈悲心（苦を抜くのを慈、楽を与えるのが悲で、
例えば釈迦牟尼仏の広大な慈悲）をもって門下子弟と接する限り、事理たちまち明らかに
なり、日々新たな想いが湧き出し、この場には教学一体（教える者と、学ぶ側が一つにな
る）の世界が生じ、いつも新鮮な気持ちで指導できるのだ。一心求道の精神をもって歩め
ば、必ず格好の報いがあるということだ。
力量上達には限界あると思うだろうが、限界など誰も知る由もない。自分に正直にあり
たいと願い、懈怠な自分をやりたいままにさせて、喜怒哀楽も我慢しないで、懈怠と空手
と同居させればよいと思ったのである。諺に、「禍を転じて福となす」とあるではないか。
さて、船越がこの条で言わんとしたことを推察してみよう。
日常の空手修行上の心得は勿論、社会生活における失態を戒め、文武両道を怠りなく歩
めと教えたかったのだと思う。この「空手二十箇條」が作成された時期は、本土に紹介さ
れ普及して10年余り、何分かの差別や蔑視を排斥し、発展途上の空手を一層広げたい一心
から、真っ当な武道としての地位を築きたい気持ちが感じ取れる。
船越は、『老婆心ながら申せば、「心が緩んで物事をおろそかに」したり、「なまけ怠
る」悪い癖が付いたり、物事を「いいかげんに扱う」とするなら、空手（武道）修行者な
るが故に非難の的になり、触れ合う人たちから信頼を得られないとすれば、これは本意で
ない。何時いかなる場合も細心の注意と、油断怠りなく振舞い、空手が自己の人格形成に
役立つように努め、向学心をもって取り組んでほしい。もし、気持ちが緩んで懈怠に陥れ
ば、さまざま好ましくない場面に遭遇したり、自分に禍を招くばかりでなく、他人にも禍
を及ぼす結果になるかもしれない。
不可抗力の災難に出会った場合でも、冷静沈着に行動し、我が身の危険をも顧みず、人
を助ける心構えがなければならない』と、言いたかったと思う。
大正12年（1923年）9月1日午前11時、関東大震災が発生した。本土に住んで間もない船
越は、沖縄県学生寮「明生塾」に寄宿し空手普及と指導をしていたが、地震発生の直後、
鉢巻を締め袴の股立ちを取り、棍棒（六尺棒）を持って玄関先に仁王立ちし、暴徒の襲来
に備えたと伝えられる。
「禍は慎家の門に入らず」（禍は全てに慎重である者のところには訪れない）ともいう
から、心に「備えあれば憂いなし」ということか。
最後に、次の各項だけは懈怠なく心されれば、貴方の空手人生は万全だ。
① 全ての行動に、礼節を欠かない。
② 修行鍛錬を、人間完成の道と心得る。
③ 修行は前向きに、ひたすら向上心をもって行なう。
④ 悪に走らず、善を至上とする。
⑤ 誠意と慈悲心で人と接する。
⑥ 長幼の序を、交わりの基点とする。
⑦ 謙虚、謙譲を旨とする。
⑧ 事に当たっては、勇猛果敢であるべきこと。
⑨ 常に、端正な振る舞いを心掛ける。
⑩ 怨望、不遜、増長、驕慢、貪欲、慢心、過信、粗暴の気を戒めとする。
次号につづく
