船越義珍の空手二十ケ条とその解説
仲宗根源和編「空手道大観」の松濤二十箇條(PDF形式) 標題の解説も、条文に入って４か月目になりました。各条の解説が少し長くなっていま
すが、これは条文の言葉を借りて、私の恣意するところを述べたいからです。読み難い部
分もあろうか思いますがご容赦ください。
さて、５月分について、条文の数字を間違って記入してしまいました。「第４条 先ず
自己を知れ、而して他を知れ」、「第５条 技術より心術」が正当でした。お詫びして訂
正いたします。
第6条 心は放たん事を要す
「心は放たん事を要す」とは、中国宋代の哲学者の邵康節（しょう・こうせつ、1011～
77）が述べた言葉で、後に、わが国でも禅の修業などでしばしば引用されてきた。邵は、
終生官職に就かず、読書勉励に努めて自適の生活を送り、虚心、無我、反観（心中深く道
理を見ない）を説いた人だ。
船越がこの言葉を取り上げたのは、邵の言葉から直接でなく、江戸時代初期の禅僧・澤
庵宗彭（たくあん・そうぼう、1573～1645）が徳川将軍家剣術指南役の柳生但馬守宗矩
（やぎゅう・たじまのかみ・むねのり、1571～1646）のため、禅の悟道をもって剣の極意
を解説したとされる「不動智神妙録」からの引用である。
今月は「不動智神妙録」に関する学習のつもりで書くので、剣の道も空手の道も究極の
ところ変わりなく、この書物に関しては武道関係書に頻出するから、今回の拙稿も参考に
されたらと思う。
澤庵や宗矩の出生以降の時代背景は、上杉謙信と武田信玄の長い抗争が終息し、次いで
織田信長が全国の主権を手に納めたかに見えたが、「本能寺の変」を経て豊臣秀吉に替わ
り、更に徳川家康が慶長5年（1600年）執念もって天下を手中に納めた。これらの情勢は、
歴史上稀に見る激変といって過言でない事態の繰り返しで、人々は新しい価値観を求めて
最も躍動した時代であった。
動揺はなはだしい世情の中、澤庵は一途に仏道を追求し、仏法世界の実現に向けて生き
抜いた一人であった。彼は政治の世界を拒否しながらも、人間にとって最も現実的かつ具
体的な執政を正面から見据え、人民の全的救済と同時に全的向上を希求し、万民が仏法に
帰依して生きるよう終生説き続けた。ご存知のとおり、「タクアン漬」は彼の考案と普及
活動の賜物とされ、ビタミンＢ1補給にすぐれた食品である。
仏法も支配下に組み入れようとする徳川幕府の政策に対し、澤庵は真向から対決し、多
くの高僧が権力に屈する中、独り仏法の自立と自主性を守り抜こうとした。結局は、二代
将軍秀忠から贈呈された最高位の僧にのみ許される「紫の法衣」着用を拒み、その廉で寛
永６年（1629年）57歳にして北国への流罪を甘受し、本県の上山藩（上山市）へと送られ、
今も同地に保存されている「春雨庵」を居としたこと周知のとおりである。仏法のために
生き、そして死なんとする澤庵の並々ならない覚悟の程が伺える。これを「紫衣事件」と
いって、配流中は上山藩主の厚遇を得たとう。
３年後の寛永９年、二代将軍徳川秀忠の死去に伴う大赦があって、許されて江戸入りす
るが、江戸の人々は、澤庵をさも凱旋将軍帰還のような熱狂をもって迎えたという。とこ
ろが、民衆の賞賛をよそに、何事もなかったかのように大阪堺の南宗寺に引きこもり、一
段と修行に励んだという。
さて、この澤庵と宗矩との交流は、宗矩は小藩ながら大和国柳生の藩主・柳生宗厳（柳
生石舟斎）の五男として生まれ、父について剣術を学びその名跡と藩主の座も継いだ。宗
矩は澤庵より2歳年長で知己として交友したとされるが、実際には澤庵の仏法に参学した。
徳川家光の三代将軍就任後、宗矩と堀丹後守直寄（越後村上藩主）は、澤庵と家光の会
見を執拗に取り運び、ついに寛永11年に至り会見の運びとなった。
家光は澤庵と接見できたことを喜び、仏法の追及と仏教世界の実現のほか念頭になく、
自ら仏法そのものになりきったような、比類なき高潔さに深く感銘を受け、心底から敬意
と尊敬の念を抱いた。澤庵から江戸に長く留まってほしいと願い、相応しい居宅と大寺院
を造営した。ところが、これをいとも簡単に断わり草庵に住む姿勢を崩さないため、澤庵
の意思を尊重し、江戸在住中は自由に振舞える小寺の建設をもって、自ら喜びとしたとい
う。
北海道大学大学院教授・佐藤錬太郎によれば（月刊武道、2007年６月号、32頁）、この
「不動智神妙録」は、澤庵が江戸に住んで３年目の寛永13年（1636年）９月24日、江戸城
殿中において家光陪席のもとに行なわれた澤庵と宗矩が交わした兵法談義、というより澤
庵が宗矩に禅の要諦をもって剣の理（ことわり）を諭す一席が設けられた。その日澤庵が
語った事柄を書面にまとめ、三日後の９月27日に家光の上覧に供すべく奉呈された。
澤庵は日を経てから、将軍に上覧のものとは別に、更に加筆して宗矩に与えたとされる
のが今日流布している「不動智神妙録」である。
次いで、題名に係る部分も佐藤の文から引用すれば、本書は「無明住地煩悩諸仏不動智」
が本来の主旨とされ、この旨奥書（書物の終わりに由来など記したもの。奥付ともいう）
されている。「不動智神妙録」は簡略名なのである。
それでは「不動智神妙録」と、「心は放たん事を要す」の本題に入ろう。
この本は、初めに本題の「無明住地煩悩諸仏不動智」に関する解説からはじまる。『無
明とは、明（あきらか）になしと申す文字にて候。迷いを申し候。住地とは、止まる位と
申す文字にて候』の言葉である。口語文にすれば、『無明という文字は明らかでないとい
う言葉である。明らかでないところには迷いが生じるのである。住地という文字には止ま
る位という意味である』とある。なお、この「位」というのは、仏法の修行段階を52に分
けた52位というのがあって、「住地」もその「位」の中の一つである。
次いで、禅宗の言葉を引用して立会いの場（真剣勝負）における、勝敗を決する心のあ
り様を述べている。
更に、『諸仏不動智という言葉がある。不動とは動かないこと、智とは智恵のことであ
る。動かないといっても、ただ石や木のように全く動かないというのではなく、心は四方
八方自由に動きながらも、一つの物、一つの事柄には決して捉われないのが仏の知恵、不
動智である』（筆者口語訳）と続く。
本書は幾つかの節に分けられるが、第６条の言葉は８番目に相当する。先ほどから述べ
ているように、原文は文語体の候文（そうろうぶん）で馴染みにくいので、筆者の口語訳
で説明を進める。
本条に関するところは、次のような文章になっている。
『放心を求めよという言葉があって、これは孟子の言葉です。放たれた心を探し求めて、
自分の身に取り戻せということです。例えば、飼っている犬や猫、鶏などが逃げ出してど
こかに行ってしまったら、探し歩いて自分の家に連れ戻そうとするではないか。自分の身
に付いているはずの心が、自分から抜け出してしまったら、どうして取り戻さないのだろ
うか、取り戻すのは当然です』。
註：孟子…前372～289 。中国戦国時代末期の儒学者。生善説を主張し、仁義による王
道政治を目指した。
『ところが、邵康節という人は、「心は放つこと要す」と言っている。両者の言葉はまる
っきり替わった（違った）言い方である。ここで邵が示そうとしたのは、心を自分の中に
縛り付けておいたのでは、疲れはててしまい、まるで飼猫のようなものであって、自分本
来の自由な心の働きが生まれない。だから物に心が止まらない（住地）よう、心が何事か
に染まらないよう、上手く使いこなせるようにして、何処へなりとも放り出しておけばよ
いのです。
心は物に染まりやすく、そして止まりやすいから、染まらせるな止まらせるな、早く自
分の身体に取り戻さないといけない。このような考えは初心者の心得であって、これは練
習の段階で使う心掛けです。例えば、蓮は泥沼の中に根を張っていても、その花は決して
泥に染まらない。また、よく磨かれた水晶の玉は泥の中に落としても泥に染まらない。心
も、そのようにして何処なりと行きたい所に行かせればよいのです。
心を常に引き止めておくなら、それは不自由なことです。しかし、そうやって引き締め
ておかねばならないならば、未だ修行を始めたばかりだからです。何時までもそのように
心掛けるのでは、到底深く高い境地にまで修行は及ばないから、一生初心者や入門者の状
態で終わってしまうのです。
稽古の時は、孟子のいう「放心を求めよ」でもよいが、上の段階に進むためには、邵康
節の「心は放たんことを要す」でなければならない』です。
澤庵は、最初に孟子の言葉、次いで邵康節の言葉と対比させながら、技量の進捗に伴い
心の持ち方の相違があると説く。
船越は、15種の形を基に門下生に指導し、こと組手に関しては、形の中から取り出した
技で構成した「約束組手」に限られたようである。特にプロローグで述べたように、「自
由組手」や「防具組手」に関しては、積極的に取り組もうとしなかったばかりか、これを
提唱した大塚博紀（和道流）や小西康裕（良武会）との間でいささかの不仲さえ生じてい
る。その船越が剣の道における、しかも真剣勝負を見据えて交わされた至極の対談である
本書から、殊更この言葉を借用した真意は問うまい。
佐藤錬太郎の解説によれば、この「放心を求めよ」は孟子の「告子篇」にあるという。
『人々が仁義の心を失いながらも、飼っていた犬や猫などが逃げたら必ず探そうとするの
が当たり前なのに、それが、失った仁義の心を、探し求めて取り戻そうとしない者ばかり
なのは嘆かわしいことだ。だから、失った仁義の心を求なければならない』を原義として
いる。
一方、邵康節の方は、『聖賢が自分の心を自在に解き放てる訳（理由）は、鷹匠が鷹や
隼を訓練して自由に空を飛ばせるようなものであって、「放心」は最高の到達点、頓悟
（ある事が切っ掛けとなって、にわかに悟りを得ること）の例えである』と示している。
修行の実際における心の持ちようは、あれこれと心が散漫しては困るから、他念や邪念
を取り除き、ひたすら信じて邁進すること肝心なのである。
「心は放たんことを要す」は、組手練習や試合で留意したいものである。相手の攻防に
ばかり気を取られれば、それは心が居付くというもので、限定された範囲できり動けない。
勝敗とか相手の動きを読み取ろうなどの念を排除し、相手との応対や決戦をも忘れ、無の
心に自分を置くなら、それまでとは格段の違う世界を得られると思うが、言葉では簡単に
理解できても、実際には容易でない。
「放心」に至るには、誰よりも多くの稽古と実戦を積み重ね、苦心惨憺を味わい修羅の
場を潜り抜けなければならない。頭で考えて、理論の構成で無心になれるものではない。
「放心」や「無意無心」が大切と気付いてから、更なる修行30年、揺るぎない状態に至っ
て初めて実現できると私は確信する。
幕末から明治にかけての剣豪・山岡鉄舟（1836～88）は、身長188ｃｍで体重105ｋｇの
偉丈夫ながら、貧しさを全然気にしない素振りからボロ鉄と、稀代稀なる強さと気性の激
しさから鬼鉄と言われたが、28歳の時に浅利又七郎義明（1822～94）と立会って敗れ、そ
の翌日浅利の門下に入った。その後、常人と変わらない体格の浅利に対し、木刀試合を幾
たび試みても、必ず追い詰められ手も足も出ない日々が続いた。鉄舟は寝ても醒めても幻
影のように付きまとう浅利の姿に悩まされながら、禅定の師・適水禅師の許でひたすら参
禅に励み、ある日『両刃、鋒を交えるや眼前に敵なく…（後略）』の考案を授けられる。
それから更に重ねること苦楚３年、浅利に出会ってから17年余を経た春日、忽然と「絶対
無」の大悟徹底に至った。早速翌日、浅利に立会いを願い出ると、浅利は快く承諾し、構
えて鉄舟を一瞥するや、即座に『貴下はすでに剣の極致に到達せられた。とうてい前日の
比でなく、私も遠く及ばない』（「山岡鉄舟」大森曹玄著。91頁）と木刀を床に置き、鉄
舟を上座に拝し、直ちに夢想剣の極意を授けたという。時に鉄舟45歳であった。
また、鉄舟は『人間無心であれば、明鏡の曇りがないようなもので、狐狸もこれを欺く
ことできぬ、鬼神も窺うことできぬ』（同、135頁）と語っている。
「放心を求めよ」とは、大変結構な言葉と理解できようが、しかし、鉄舟の例で分かる
ように、実際に「放心」に至るには余りにも苦悩が多く、技術も一定レベルを超えて極致
に達し、自覚勉励は当然ながら良き導き手に巡り会わない限り不可能に近い。下手な役者
が何人揃っても、成り立たない世界である。
論語「学而第一」に、『学びて時に之を習う、亦（また）説（よろこ）ばしからずや』
とある。教えを受け、それを真剣に復習して取り組む。そのようにすれば日々が楽しく、
学びが漸進し、達成の悦びが嬉しいのです。
最後に、澤庵「不動智神妙録」の精神を基にして、後に宗矩は柳生新陰流の奥義書「兵
法家伝書」を著す。この二書は、江戸時代におけるあらゆる武技武術に影響をもたらし、
武技の練磨は、即、心性の修行に他ならないとの思想を定着させ、武術修行を武士道にま
で昇華させ、太平の世ながら、武士たちの精神修養に限りない希望を与えたことは、その
価値は今さら語るまでもあるまい。
次号につづく
